*この原稿はスペクテーター誌(No.30=2014.4号)に依頼されて名前のない新聞の主に第一期について書いたものです。記録として意味があるかなと思い、編集部の了解を得てここに再録しました。スペクテーター誌では最初に編集部の書いたイントロが入っています。
(*画像は地図だけクリックで拡大します)

 

『ホール・アース・カタログ』と
        
もうひとつの出版史

■なぜ創刊したのか

 名前のない新聞を最初に出し始めた頃は僕もまだ20歳そこそこの小僧で、何をどう表現したいのかも自分でよくわかっていない状態だったが、確かに勢いだけはあったのを覚えている。手近なことから何でもやってみたいと思っていて、その手近なこと、自分が身近に思えたことがミニコミ紙づくりだったということになる。
 まずは名前のない新聞を出すに至った社会的・個人的背景に触れておこう。
 大学に入学して1年ほどたったところで全国的にもそうだったが僕が通っていた大学の中でも学生運動が盛り上がり、学生が校舎を占拠して授業が1年間行われない事態となった。当時の運動の中心だった全共闘は革マル派という新左翼の政治組織が中心だったので入りきれず、仲間たちとベ平連(「ベトナムに平和を反戦連合」の略)をつくり、その名前で学内外のデモに参加したりミニコミを出したりしていた。
時がたつにつれ大学の中では機動隊が常駐してフェンスが建てられて物理的に活動が制限される状況が続き、また学生の運動内部では革マル派が運動を仕切って締め付けを厳しくし、それ以外の人間はおおっぴらに活動できなくなっていったこともあり、学内からは離れて地域のベトナム反戦の市民運動に参加するようになった。
このベ平連というのはそれまでの左翼も右翼もピラミッド型上意下達の組織だったのに対し、対等の立場の者が横につながるというゆるやかなネットワーク型組織で、画期的な発想だった。そのため各地域や大学、職場などに勝手に○○ベ平連を名乗るグループが自然発生的に次々と立ち上がってお互いに連携したり、デモや集会をやるだけではなく自分たちの雑誌をつくったりマスコミに意見広告を載せる等の活動から、中には米軍の反戦兵士(脱走米兵)を助けて国内でかくまったりスウェーデンなどに密出国させるという非合法活動まで行うグループも出てきた。
僕自身は子供の頃からピラミッド型人間関係にはどうにも我慢ならない気持ちを持ちつづけていたのでべ平連には大きな魅力と共感を感じたわけだが、それまで反体制的な運動の中にもあった封建的、差別的人間関係がもはや時代遅れだということが明らかになったのが1960-70年代の学生運動や反戦平和運動の一部、そしてカウンターカルチャーの動きだったと思う。

■ガリ版→オフセット→DTP

 大学のベ平連をやっていた時から自分たちの活動をアピールするためにミニコミ印刷物を発行してきたのだが、当時のミニコミというと、ほとんどがガリ版印刷で作られていた。ガリ版印刷は鉄筆を使ってロウ原紙に原稿を書き込み、その原紙を木枠に貼り付けて上からローラーでインクを塗りつけると、下に置いた紙に印刷されるという仕組みだ。最初の頃は月に3回発行するというハードなペースで作っていたので、我ながら儲かりもしないことをよくも続けてきたものだなと思う。情熱というよりは熱に浮かされていたといった方がぴったりかもしれない。その上、新聞だけでは足りずに『DEAD】という題の雑誌(当時はリトルマガジンと呼んでいた)もガリ版で何度か出していた。
 なぜこういった情報誌的なミニコミを出そうと思いついたかというと、当時アメリカで出されていたホールアースカタログやバークレイ・バーブなどの全米各地で出されていたアンダーグラウンド新聞が念頭にあったのは間違いない。そういった新聞がアメリカでのベトナム反戦運動に大きな影響をもち、また一方でヒッピーとかフラワーパワー、ウーマンパワー、ブラックパワーなどと称されたカウンターカルチャーのムーブメントを反映していたことを知って、日本でも‥‥という気持ちを抱いたことがきっかけだったと思う。もちろんそんなふうに大規模にちゃんと印刷された形のものには財政面でも編集能力の面でも遠く及ばなかったが、とにかく自分で作ってみたいという気持ちを形にするにはガリ版が手っ取り早くできる等身大のツールだった。
 しばらくガリ版で出していた後、版下は手書きでつくり印刷はオフセット印刷で刷るスタイルに変わったのが1973年6月の38号からになる。オフセット印刷にしたのは、ともすれば印字が汚くなってしまい読みづらかったガリ版印刷に比べてきれいで見やすく印刷できたからということもあるし、それ以上に写真を載せたり自由なレイアウトで作れるからということも大きい。その後は一時、版下制作に写植印字を使っていたこともあるが、しかし印刷の世界が恐ろしいスピードで変わっていったのに伴い、ワープロ、そしてパソコンが主流となっていった。
 現在の名前のない新聞(第二期名前のない新聞)は1988年のいのちの祭りをきっかけにして発行しはじめたもので現在に至っているが、出し始めた頃はワープロで文字を打ち出し、分厚い台紙にそれを貼付けて版下をつくるというやりかたで、それを印刷屋に持ち込んでオフセット印刷をしていた。それは第二期の途中で1992年に八丈島に移住してからも変わらなかったが、移住してしばらくたったころ友達の家でMacを見せてもらい、あなたのようなこと(ミニコミづくり)をやってる人はぜひパソコンを使うべきだと半ば説得され、いっしょに秋葉原までついてきてもらって初めてのMacを買うことになった。MacのOSが漢字トーク7.3とか7.5という時代のことで、それからがいわゆるDTPで新聞づくりをし始めたことになる。

■第一期=吉祥寺編集室時代

 最初のころの新聞の内容はどんなものだったかというと、学生運動や市民運動に関っていた経験から反権力・反体制的な意識を持ち、大学に象徴されるようなピラミッド型の既成社会からドロップアウトしていこうというベクトルが強かったので、そのための情報を同じ志向の者たちと共有したいという気持ちから、街や生活技術などの具体的な情報、祭り・イベント情報などを載せていた。その中には左翼・反体制的な情報もあったし、また当時ある意味で時代の先端を行っていたウーマン・リブやコミューン、そしてヒッピー、ドラッグなどカウンター・カルチャーの情報もあった。その頃の編集方針として覚えているのは、能書きをくどくど書かない。それよりも具体的な情報やツールを載せるということがあったが、これはホールアースカタログの影響もあったかもしれない。
 学生運動を体験・通過した学生のころは自分のまわりも、また自分自身も社会変革を求める気持ちが強く、ある意味全力でぶつかっていっていた。しかし学生運動や反戦運動が既成社会や権力の壁、具体的には機動隊の壁にぶつかって乗り越えられず、また運動内部の対立(新左翼の組織同士で暴力的な争いなど)でゆきずまっていったのを見たことで、単純な社会変革を目指してもうまくいかないことを身にしみて感じた。その壁を打開し乗り越えて行くには、社会の構成員一人一人、つまりは自分自身の意識が変わることが必要で、それも頭の先だけでなく暮らし方や人間関係のあり方などから変わらなければ本当には変わったと言えず、結局は社会も変わらないと考えるようになってきた。コミューンやヒッピーに興味をもったのは、それが新しい方向性を示していると思ったからで、何よりそういったものが新鮮でかっこいいと感じていた。
 1970年代の初め頃は社会的政治的な動きが鎮まった一方で、フォークやロック等の音楽をやる若者が爆発的に増えていた。またミニコミ作りもさかんで、一方ではコミューンを作ろうという動きがあちこちに生まれていた。たとえば東京郊外の福生などでは米軍ハウスを共同でかりて住む、今で言うシェアハウスのようなコミューンがたくさん生まれていて、更にその中にはミニコミを出す者もいたし、その場所をお店にしたり、あるいは住人が自宅・自然出産をすることもあった。コミューンづくりの動きはその後全国に広がり、コミューン運動と呼べるようなものとなっていった。
 僕自身は音楽や絵を描くのは得意ではなかったが理屈っぽかったのかミニコミ作りの道に入り、同時発生的に全国に現れたミニコミ発行者達と連絡をとりあって会議を開いたり、各紙をつなぐような共同のミニコミを出したりと活発に活動していた。当時はミニコミセンターという団体が活動していたり、ミニコミを取り扱ってくれる書店も全国にいくつもあり、ミニコミブームと言えるような時期だったと思う。
 新聞のスタッフは時期によって変わっていったが、まだガリ版印刷だったころ、吉祥寺の駅前にあったOZというライブハウスの一角のスペースを編集室として貸してもらえることになった。それまでは駅からかなり離れた自分のアパートで作っていたので、集まるにも遠いし狭いというわけで、駅前の店にある編集室はとてもありがたかった。おまけにOZでやるライブコンサートを横からのぞくこともできた。その頃は自分も若造だったが地元の市民運動関係の若者たちや高校生たちがスタッフの中心で、入れ替わり立ち替わり来ては手伝ってくれた。OZは街の再開発で立ち退き予定地域にあったので、ほんの一時ではあったが、活気がありおもしろい時期だった。
 その当時、吉祥寺は若者の街ということでマスコミでもさかんにとりあげられていて取材されたこともある。しかしそういうブームのようなマスコミのちやほやぶりに違和感を抱き、吉祥寺の街を自分たちの手に取り戻したいという気持ちから、1972年10月に仲間たちでBe-In 武蔵野と称した祭りを行ったことがある。これはOZのほかもともと名前のない新聞の発祥の地と言えるぐゎらん堂や井の頭公園などを結んで様々なイベントを行ったものだ。OZでは多数のスピーカーを招いてティーチイン(講座)を行ったりオールナイトの映画上映をした。ぐゎらん堂ではコンサートを、また思い思いに着飾ったり化粧をして吉祥寺の街を練り歩き、井の頭公園に集まってそれぞれ勝手に遊ぶという何だかよくわからないイベントもした。まだ自分たちが何をしたいのかよくわかっていない頃だったし、継続的に何かを作り上げるという考えもなかったが、何より楽しかったのを覚えている。
(*画像:井の頭公園にて武蔵野BE-IN)

■各地のコミューンとのつながり

 OZの編集室がなくなってからはまた1部屋だけの自分のアパートを根城にして、スタッフも3人からせいぜい5、6人くらいの固定メンバーで出し続けて来た。
 その頃、部族が諏訪之瀬島をリゾート開発から守れと呼びかけるキャンペーンをはじめた。部族は日本のヒッピーの元祖と言えるグループで、各地にコミューンをつくっていたが、そのひとつが諏訪之瀬島にあった。彼らは欧米のヒッピーたちとも親交をもっており、よくリュックをしょって部族が開いている店(ほら貝)や長野県の富士見にあった雷赤烏族というコミューンを訪れる長髪の外国人がいた。そのため部族というのは自分たちより先輩の世代の人たちが中心で、アメリカのヒッピーのような生き方を日本で実践しているグループだという認識を持っていた。部族ではこのほか、東京の国分寺にあったエメラルド色のそよ風族(このメンバーが交代で国分寺にあった日本初のロック喫茶と言われる「ほら貝」を運営していた)、宮崎の一つ葉海岸でヨット作りをしていた夢見るヤドカリ族、そしてトカラ列島にある諏訪之瀬島のがじゅまるの夢族(時期によってバンヤンアシュラムとも呼ばれた)などのコミューンがあり、部族のメンバーはそれらのコミューンを巡りながら旅をすることも多かったと聞く。
 それまでは直接の接触はなく、彼らは彼らで独自の道を行っているという印象だったのが、スワノセのキャンペーンを広く訴えるために彼らの方から接触してきて、名前のない新聞にもぜひ取り上げてくれと働きかけてきた。それは僕らだけではなく、コミューン運動をやっているグループやおおえまさのりさん達のやっていたオームファウンデーションというグループ、またミュージシャン、アーチストなどにも呼びかけてイベントを開いたりもしていた。
 このキャンペーンは約1年間続き、海外でも詩の朗読会を開いたり、また「スワノセ第四世界」という自主制作映画(監督は上野圭一さん)がつくられ、各地で上映会が行われたりもしたが、諏訪之瀬島のコミューンは地元住民との関係があり、コミューンは解体して家族単位で島の部落会に入るという形になった。けっきょく大資本によるリゾート開発は止められなかったが、カウンターカルチャーの世界の横のつながりが生まれ、活性化したのは確かだ。またその後、リゾート開発もブームが過ぎて頓挫し、ヤマハは諏訪之瀬島から撤退することになった。
(*画像:部族のコミューンの1つ、長野・富士見の雷赤鴉)
(*画像:同、諏訪之瀬島・バンヤンアシュラム)
(*画像:セーブスワノセのバークレイでの詩の朗読会:アレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダー、ナナオサカキ他)

■北海道へ徒歩旅行ー「ミルキーウエイ・キャラバン」

 その頃には部族よりも世代が若い(僕らくらいの世代の)コミューンが各地にできていた。その中のいくつかが「星の遊行群」というコミューン連合を組んで、4月に沖縄を出発し、9月の北海道まで日本中をくまなく歩こうというヤポネシア・キャラバン'75を提唱した。これには部族のメンバーをはじめ日本のカウンターカルチャーの主立ったグループも参加し、各地でジョイントポイントという集合場所を決めて、そこでお祭りやコンサートや会議を開き、それが終わるとまたそれぞれに旅をして次のジョイントポイントに集まるというスタイルをとっていた。なおヤポネシアとは国家という概念を離れたところで日本列島をさす言葉だ。名前のない新聞に載せたマップにはジョイントポイントのほか、全国で泊まれるコミューンを約30カ所紹介していた。
 僕自身は御殿場での花祭りコンサートや神奈川大でのオールナイトレインボーショーに参加したあと、キャラバンの後半となる東北・北海道の行程に参加した。東京からヒッチハイクで仙台の雀の森というコミューンへ、そして山形、盛岡のコミューンに何日かいたあと北海道に入り、登別のジョイントにたどり着いた。ここには入れ替わり立ち代わり20~30人の人間が来ており、ガリ版も使えたので新聞のNo.88(1975.8.25)号を出し、そこに集まって来た人達に旅の様子や考えたことなどを書いてもらったり、その後のジョイントポイントの情報を載せたりした。北海道は8月下旬ともなればセーターがいるくらいの寒さだが、その後も9月6-7日には富良野の金山湖畔でコンサートがあり、また14ー21日にはキャラバンの最終ジョイントポイントとして屈斜路湖そばの藻琴山のキャンプ場で1週間にわたる宇宙平和大集会が開かれた。そこは標高600mの山の中腹にあるところで夜などかなり寒かったが、全員キャンプ生活をしながら数百名の参加者で毎日会議をしたり山登りをしたり音楽があったりと楽しく過ごした。その後は思い思いに家に帰る者や旅を続ける者などそれぞれだったが、僕は旭川の郊外にあるひこばえコミューンというところにしばらく滞在した。そこではみんなで近所の農家のトウモロコシ畑に農作業を手伝いに行ったり、みんな仲良く食中毒になってトイレに行列ができたりと懐かしい思い出がある。僕の旅は全体で約3ヶ月ほど、20~30kgのリュックを背負い東京から北海道の東の方迄すべてヒッチハイクで通した。
 キャラバンからもどって11月には新聞を復刊し、また12月にはキャラバンのレポートを載せたNo.90を発行した。その号にはミルキーウェイ・マルチメディアセンターを作ろうという呼びかけを載せており、その他には東京で活動していたグループもぐらが福島に土地を見つけて獏という農業コミューンを作ったという情報(今でも獏原人村の満月祭という祭りを毎年開いている)、西荻窪のほびっと村をつくった無農薬八百屋の長本兄弟商会が創業1ヶ月を迎えて団地で引き売りをしているという情報などが載っている。
 第一期の名前のない新聞は1972年から77年までの約5年間発行し、100号を出したのを機に自分は引退宣言を出してやめることにした。ずっと出し続けることに疲れてしまったからだ。そして当時のスタッフがあとを継いで出してくれるというので安心してまかせたのだが、なぜかその後いくら待っていてもさっぱり発行されなかったので、しびれをきらせて101号を出すのを手伝い、それを最期に終刊ということにした。
 現在、名前のない新聞に連載で原稿を書いてもらっている韓国人の田恩伊さん(神戸大講師)はおそらく日本でも一番日本や韓国のコミューン事情に詳しい人だろう。その彼女の博士論文には次のように紹介されている。
 「70年代に発行された『名前のない新聞』の特徴は,当時のお祭りが多く紹介されていることである。また,カウンターカルチャー系の情報が満載だが,特に70年代の後半にはコミューンや共同体に対する幅広い情報が多く紹介されている。‥‥『名前のない新聞』は,生活に密着した感覚で共同体運動を捉え,各々の共同体の時間的な変化プロセスが読み取れる特性を持っている。」
(*画像:名前のない新聞に載せたキャラバン地図「ヤポネシア曼荼羅」*クリックで拡大)
(*画像:キャラバン最終地点、北海道・藻琴山での宇宙平和会議)

■「やさしいかくめい」創刊顛末記

 当時、アメリカのカウンターカルチャーの中でホールアースカタログが人々に大きな影響を与えているという情報が入って来ていた。そこで日本でもそういう本を出せないものかという話があちこちで出ていたが、東大の教授だった高橋徹さんから具体的な提案が出て来た。
 「やさしいかくめい」と名付けたその本の編集メンバーには高橋さんの他、部族の山尾三省さん、おおえさん、プラブッダ、きこりなど10人ほどのメンバーがいた。三省やおおえさん、高橋さんらは長老として口だけ出し、僕ら若手が実際の取材や編集活動をするという形で進めた。何人かで手分けして全国のコミューンを取材したが、僕は北海道や関西へ出かけた。
 そうしてようやく出した1号は思い通りに出したものの今見直すと素人が作った本という印象もある。ひいき目に見ると、素人ならではの面白さもあったかもしれない。やさしいかくめいは最初からシリーズもので全体では10号まで出す予定だった。1号はその総集編的な意味合いのものだったので、内容もバラエティに富んだものだった。そして2号からは各論に入り、出産と育児という具体的な内容の本だったので編集体制も変わり、末永蒼生さんが中心となった。そして1号が予想を下回る売れ行きだったこともあり判型を小さくして読ませるような本にして出したが、やはり売れ行きが思うようにのびなかったためけっきょく2号までしか出せずに終わり、返本の山と借金だけが残った。僕は若手の中心で編集長という立場だったので、編集だけでなく赤字を抱えた出版体制のことも引き受けることになった。またお金のことだけでなく、なかなか予定通りに編集・出版が進まず、そうとうな年月を費やしたので、そのことも苦い思い出となっている。そのため今も新聞づくりはすぐに出せて決着がつけられるが、本は時間がかかりすぎるからやりたくない、というふうにトラウマになって残っている。もちろんその時に出会ったたくさんの人達との交流や経験したことは自分の人生の上での貴重な財産だとはわかっているのだが。
 「やさしいかくめい」制作の初期には西荻窪のほびっと村の一角を借りて編集室としていた。そして編集作業のために毎週金曜日にゲストを招いて話を聞くという金曜講座を中心に指圧教室や太極拳、ヨーガ、産婆の学校などの「西荻フリースクール」をはじめ、その後、ほびっと村学校と名前を変えて現在に至っている。
 また「やさしいかくめい」を作っていた頃、僕も東京の三鷹にある元裁判官のお屋敷で日本庭園がついた大きな家に10数人が住むコミューン「ミルキーウェイ」にしばらく住んでいたことがある。ここは名前からもわかるようにミルキーウェイキャラバンを主導した人達が中心で、マルチ・メディア・センターが置かれ、時々庭でフリーマーケットを開いたり、家の広間で様々なミーティングを開いたりしていた。
 その後、そこから20分ほど歩いたところにあるマンションのワンフロアを4人で共同で借りて、また何年か住んでいた。僕が借りていた部屋はやさしいかくめいの編集室としても使い、友人たちがそこで定期的な教室を開いていたこともある。たくさんの人達が出入りしていたのでにぎやかだった。
(*画像:「やさしいかくめい」第一号の表紙)
(*画像:「やさしいかくめい」編集部のベランダで出版祝いの集まり)
(*画像:ほびっと村学校で金曜講座。ゲストはナナオ)
(*画像:ミルキーウェイで会議)

■「いのちの祭り」で壁新聞発行

 第一期の新聞から約12年たち時代が一巡りした1988年。その年は年明けから反原発の波がうねりとなって全国に広がり、2月には四国電力伊方原発の出力調整実験に反対して高松の四国電力本社に集まったり、4月には東京で大規模な反原発集会とデモがあったり、その流れで8月にNO NUKES ONE LOVEという言葉を掲げて八ヶ岳(を見渡せる南アルプス山麓で)いのちの祭りが開かれた。
 ちょうどその祭りの1ヶ月ほど前に仕事を辞めていた僕は祭りの準備期間から関わることにした。そして、ただ人の手伝いをしてるだけではつまらないので、何か自分に向いている形で参加できないものかと考えた末、祭り会場内で日刊の新聞を発行することにした。祭りの実行委員長はおおえまさのりさん、その他にも以前からの仲間や友人達がたくさん参加していたこともあり、祭り公認の新聞ということになって専用の部屋も使わせてもらえた。この新聞は費用や時間のことからオフセット印刷はできなかったが、ワープロでつくった版下を会場近くのコピー機がある店に持ち込んでコピーで100部ほど印刷し、会場内の要所要所に壁新聞のように貼り出していた。この時の新聞は友人が作った88いのちの祭りの本にも再録されている。(*『NO NUKES ONE LOVE いのちの祭り '88 Jamming Book』)
 この祭り会場での壁新聞発行というのは自分でも気に入って、その後もいくつかの祭りで出すことになった。2000年のいのちの祭りからは新聞と同時にウエブページもつくることにして、その後も2002年の浜岡・平和の集い、2009年以降2、3年続けた山水人などでも壁新聞とウエブでの発信を続けた。(*以下のリンクからウエブページや壁新聞のpdfファイルも見られます。http://amanakuni.net/maturi/index.html
 また名前のない新聞でも1998年の第90号から紙媒体と同時にウエブ上でも一部の記事を読めるようにしている。しかし紙の方は有料(購読料をもらっている)なのであくまで一部だけ公開するようにしている。紙媒体はいずれ滅びる運命にあると思い、名前のない新聞も紙に印刷する今までのスタイルはやめてウエブだけにしようかと思っていたこともあるが、今のところはまだまだ紙の新聞も続けるつもりだ。http://amanakuni.net/Namaenonai-shinbun/
(*画像:88いのちの祭り会場風景)

■第二期=東京→八丈島→そして神戸

 1988年のいのちの祭りは関わった多くの人にとって人生の中の転機になるような出来事だったとよく聞いたが、僕にとってもそうだった。祭りの前に仕事をやめ、すでに次の仕事を決めていたのだが、いのちの祭りを経験した後はもう普通に人から雇われる仕事はしたくないと感じた。また自分がやるべき仕事はやはり自分で新聞を出すことだと確信したので、祭りが終わった後、さっそく新聞を出す準備を始めてその年の12月に第0号を出すことができた。祭りの関係で知り合った人や前からの知り合いに原稿の執筆を頼んだり取材をし、祭りの関係で知った全国の店で販売してもらうことにした。
 流通に関して第一期の頃と違うのは、ひとつには有料で販売してその購読料をある程度あてにしていたので、お金の精算などをきちんとやってくれる店だけにしぼり、そのため第一期の頃よりは店の数としてはだいぶ少なくなったことだ。また時代の流れということでもあるが、第一期の終わりころに出来始めた無農薬有機野菜の八百屋さんが全国に広がり、そういった店が感覚的にも一番近く、いのちの祭りの関係者にも多かったため、さいしょのうちは八百屋さんの数が非常に多くなっていた。しかし年月が経つにつれ減って行ったのだが、それは無農薬八百屋さんでは泥付き野菜などを扱うのが普通で、置いてもらっているうちに新聞が土ぼこりで汚れて売り物にならなくなってしまうということがあったし、また無農薬八百屋さんという存在自体がしだいに減って行ったということがある。先に印刷方法のところでも時代の流れが非常に早いと書いたが、こういった生活や仕事に密着した場面でもここ10年、20年の変化はとても大きく激しいことを実感する。
 ついでに経営的なことを書くと、販売店が減ったこともあり発行部数は最初の数年をピークにどんどん減り、またバブル期を境に広告も減って行ったので、現状は持ち出しとなっている。もう人に雇われる生活はしないという決意はどうなったかというと、八丈島時代に趣味からはじめたハーブの栽培がそのままでは商売にならなかったものの、その延長のアロマテラピー関係の品の輸入販売というのが軌道に乗り、自営業者の道を進むことになった。今でも本業は新聞の発行と公言しているが、経済的には通販でやりくりしているわけだ。ただこの世界も変化が激しいので、5年後、10年後に自分がどうやって食べているかは予想できない。
 さてだいぶ話がそれたが、第二期の名前のない新聞は1989年の2月の第1号から年10回発行のペースで何年か出し続けた。(現在は年6回・隔月発行)第二期を出す間には2度引っ越しをしていて、最初は東京から八丈島へ、そして現在の神戸に拠点を移した。神戸には実家の両親が年老いてきたことに伴うものだったが、八丈島は田舎暮らしがしたいと思って移住したのだった。その何年か前から都会暮らしに愛想が尽き、自給自足的な暮らしができる田舎に引っ越したいと考えていた。さいしょは友人・知人がたくさん住んでいた熊野に狙いを定め、年に2,3回通ってる時期があった。第二期名前のない新聞No.1の特集「ボランタリー・シンプリシティ」ではその熊野に住んでいた人たちを取材している。しかし実際にはやはり取材で訪れた八丈島に惹かれ、移住したのだった。田舎暮らしにあこがれて移り住んだのは、名前のない新聞で生活からの革命というようなことを主張していながら、現代文明の元凶と言える都会に暮らし続けてきた自分の視点を変えてみたいということがあったように思う。
第二期の100号(2000年5・6月号)で『島日記 100号発行にあたって」にはこんなことを書いている。
 「‥100号に至る中で特に大きかったのは、東京から八丈島に移住したことだったと思っています。意識せずとも自分の立つ場所を変えることで視点が変わってきたのではないかと思います。東京にいると見えなかったものが、徐々に見えてきた気がしています。‥(中略)‥地球全体が網の目に包まれ、相互に情報発信・受信する時代になりつつあります。中身の濃い=みなが必要とするような情報を発信できれば、そこが地球の中心です。八丈には古い絵地図が残されていて、それは地球の真ん中に八丈島が大きく描かれていますが、元々地球には中心はないと言ってもいいし、逆にどこもが中心と言っていいのです。」
 八丈島に住んでいた約10年の間にはビーチクリーンアップという海岸のゴミ調査を毎年続けたり、その結果、島内のローカルな政治に関わらざるを得ないと思って何年か住民運動のようなことをしていたのだが、そこでも仲間達とミニコミ誌を出していたので、やはり自分の人生にはミニコミ発行がつきまとうカルマがあるのだなと思っている。

*参考書としては次のものがあります。
★「アイ・アム・ヒッピー~日本のヒッピームーブメント史'60ー'90」(増補改訂版)山田塊也著 ¥2500 森と出版 hippiepon@yahoo.co.jp
★「魂のアヴァンギャルド~もう一つの60年代」おおえまさのり著 ¥1600 街から舎 03-6638-6685
★「NO NUKES ONE LOVE いのちの祭り '88 Jamming Book」 ¥3000 プラサード書店 prasad@kamnabi.com
★「『つくられる共同体』の社会学的研究ー共同体運動の現代的意味と新たな展開ー」田恩伊、神戸大学大学院国際文化学研究科、博士論文

*はまだ・ひかる
京都生まれ。神戸で育ち東京の大学へ。在学中に学生運動の波に洗われる。休学中に第一期『名前のない新聞』を出し始める。カウンターカルチャーの波に乗りながら五年間発行し、いったん休刊。仲間たちと『やさしいかくめい』(プラサード編集室編・草思社・1978)を出版。1988年、反原発の波が盛り上がった年の「いのちの祭り」に参加したのがきっかけとなり『名前のない新聞』を再刊、現在に至る。1992年、東京から八丈島に移住し島の住民運動に参加。2001年、親と暮らすため神戸の実家に転居する。