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アフガニスタンの風

〜SHAMAAL E AFGHANISTAN 〜

藤 田 政 弘


アフガニスタンの中でも被害が大きく、支援の手が行き届いていなかったシャマーレ地方を去年の年末に訪れ、直接支援のパイプを作ってきたレポートです。

 12月17日、僕はイスラマバード行きのパキスタン航空853便の機上にいた。そして飛行機が事故に遭わないようお祈りしていた。‥‥その日世界が変わったと云われた9月11日、4機の民間航空機がハイジャックされ、象徴的なツインタワービルが崩壊したことの意味を正しく理解して、犠牲になった人達のご冥福をお祈りすることで、悲しみ憤りを希望へ変えていこうと心に誓ってきた。
 実は僕もその日以来、「飛行機には乗りたくないな、特にアメリカのは」と思っていたのだ。「乗るならアフガンに行く時ぐらいかな、タリバンの義勇兵として‥‥」と冗談を云っていたぐらいだった。その冗談が実現していた。ただ義勇兵としてではなく、「シャマーレ・アフガニスタン(アフガニスタンの人々のいのちを救おう)」というプロジェクトの発起人で友人である大月英明さん(長野県波田町)が隣の席に座っていた。その隣に座る美麻遊学舎の吉田比登志さんが身体を乗り出して、「ヒロは(アフガン支援で)何をしたいの?」と訊いてきた。「まだ緊急支援の時期でしょうから、現地で必要とされていることを‥‥。食料や物資ならペシャワールのバザールでそろうでしょうから‥‥」「僕らは快医学ネットワークの世話人をしていて、手当ての道具も持ってきてるし、ねえ」と大月さんに話を振った。「今日もジャララバードは空爆されているようだし、アフガンに入れるか分からないけど、必要とされている処へ直接物資を届けたいよなあ」と大月さん。3人でこんな話をするのは初めてだった。
「日本に居ると、消極的にでも加害者になっている気がして、身の置き場に困って‥‥」と心情を吐露した。そして「居ても立ってもいられない、何かしたいと思っている人達からお金やお祈りのお札を預かり、家族や友人達の熱い想いも背負ってきちゃった」と話しあった。
 イスラマバードで乗り換えペシャワールに着いたのは18日の朝の9時頃だった。僕にとっては3度目のペシャワール。ワクワクしながら新市街を抜け、旧市街にあるホテルに着いた。そしてそのホテルの4・5階部分を借り切っているアフガン難民のアッタウラ一家を訪ねた。住所はホラソン難民キャンプにあるそうで、21才になる息子のルフラーはホラソンキャンプで生まれたという祖国をまだ見ぬアフガニスタン人だった。20年以上も続く内戦で、難民生活も長い彼らだが、たくましく街でじゅうたん屋を営んでいた。ホラソンキャンプで暮らす人達は約6万人、ペシャワール近郊には200万人の難民が生活しているそうだ。
 アッタウラ一家とその仲間達の全面的な協力を得て、僕達はすぐに動き始めた。現地NGOを訪ねてまわり、街に慣れながら情報を集めた。乾いて埃っぽいバザールには物が溢れていて、ゴミもまた一杯だった。
 「UNの飛行機で$1000出せばカブールに行ける」という情報が入ったが、僕らにふさわしい方法だとは思えない。もっと地べたに近い方法を探した。まずジャーナリストとしてトライバルエリア(部族自治地域)への入域許可証をもらい、国境までの道を拓いて、故アブドゥラ・ハク氏宅を訪れた。彼はCIAの後押しで10月にアフガン国内に入って調停を企り、タリバンに見つかって殺害された人だ。今でもその勢力はペシャワールからジャララバード周辺に及んでいる。この邸宅には彼の弟が住んでいて、クロスボーダーの許可証を出してくれるという。結局ジャララバードまでコマンド付等で一人$220を要求された。
 急いでアフガン服をテーラーに頼み、帽子を買って荷物をまとめた。通訳兼ガイドとしてカブールに兄家族が住むナビという青年と、初めての祖国に期待をふくらませるルフラーも一緒に行くことになった。僕ら5人はハク勢力のコマンドに守られて、トライバルエリア、カイバル峠を越え、国境を渡った。パキスタンの出国スタンプはもらったが、アフガニスタン入国スタンプはなかった。国境付近には物資を運ぶ大型トラックが並び、鉄製の大きな扉が開くたびに、子どもを抱え荷物を持った難民の人達がアフガン側に戻っていった。
 国境からジャララバードまでは車で一時間とかからない。車窓から見る景色は78年に来た時と変わらないように思った。戦火にさらされていたジャララバードの街もバザールのお店はほとんど開いていて、たくましく暮らしている様子だ。街を出入りする主要道路の要所要所にはアフガン服姿の銃を持った兵士達が検問を行っており、まだ完全に銃の音が聞こえなくなった訳でもなかった。


 「カブールまでコマンド付で一人$400で送るよ」と云われたが断り、自力で運転手と車を探して地元のムジャヒディンの兵士と出会った。出発する前、「危ないところで車がエンコしたらおしまいだから‥‥」と言いながら、入念に車の手入れをしていた。フロントガラスにはマスード司令官の大きな写真を貼り付けた車は、日本人3人とアフガン人3人を乗せて快適に走り出し、運転手のカーシムもすぐにうちとけた。さすがに地元のムジャヒディン兵士だったらしく顔パスで検問を抜けていく。郊外に出ると道路とは呼べないほどの悪路がカブール川に沿って続いた。
 右手に白く雪をかぶって見えるヒンズークシの山々の雪解け水を集めるカブール川は、下ってインダス川となり、文明を産み、人々の暮らしを支えてきた。近年では温暖化による積雪量の減少が川の水位を下げ、干ばつにつながっているという。それでも道ばたでは畑で採れたばかりのカリフラワーやニンジンが売られていた。かつてはアジアン・ハイウェイと呼ばれ、バスやトラックが100km/hで行き交っていたこの道は、20年もの内戦により、今ではまるで瓦礫の上を走っているようだ。そのため、入念に手入れしてきたタイヤがパンクしたが、みんの命がかかっていたのでタイヤの交換はまるでF1レースのピットクルーのような早さだった。
 壊された橋を大きく迂回して、水位が下がった川を渡り、でこぼこ道は続いた。カーシムは悪路をかまわずスピードを上げ、右に左に大きな穴ぼこがあるのをよけながら車を飛ばすテクニックはなかなかのものだったが、破れた窓から入る土埃で車内はもうもう。頭は何度も車の内壁とぶつかった。「もう大丈夫、ちょっと休もう」と言ってカーシムが車を止めたのはサロウビというダム湖のほとりだった。危険地域を無事に通過したことをみんなで喜んだ。
 景色の中に徐々に建物が増えてきてカブールに近づき、検問所も無事に通過して暫定行政機構が発足したばかりのカブールの街に入った。一画の大きな敷地にUNが陣取っているものの、制服を着た兵士の姿は目につかず、街には人や車が行き交っていた。壊れたままの建物をよそにバザールは店をあけ、子ども達は瓦礫の上で遊んでいた。
 電話やFAX、電気も安定していないカブールでの現地NGOの活動は停滞気味のようだった。僕らは被災が激しかったと言われるチャリカールに支援に行くことにした。「最大限に必要とされている処へ、直接支援する」目的のために‥‥。地雷原を抜け、バグラム空港を左手に見て北へ70〜80km、チャリカールにあるガイドのナビの実家にお父さんを訪ねた。「シャマーレへようこそ」とお父さんは丁寧に挨拶して、僕らを手厚く迎えてくれた。「シャマーレ」というのは風という意味で、僕らがシャマーレ・アフガニスタン(アフガニスタンの風)と名付けたプロジェクトは、神のおぼしめしかシャマーレという処にたどり着いていたのだ。
 地域のコニュニティリーダーを務めるというお父さんに僕らの目的を伝えると協力を約束してくれ、役場の人と小学校の校長先生を紹介してくれた。さらに銃を持った私兵をつけて村はずれに住む困窮に瀕した母子や両親と身寄りを失った8才の男の子、地雷で片足を失った男の人、そして壊されたままのカレッジを訪ね、「ごめんね、こんな事しかできなくて‥‥、がんばって下さい」と直接現金を手渡し、想いを伝えた。


 「もう一つ見て欲しい処がある」と女学校だった処へ連れて行かれた。辺り一面に薬莢が飛び散り、銃弾の跡が生々しい。廃墟となった女学校は、ここで激しい銃撃戦があったことを物語っていた。戦いの最前線にあったこの地域では、350人の村人達が亡くなったという。僕は思わず中庭に穴を掘り、友人から預かってきた「お祈りのお札」を埋めて手を合わせていた。僕らがMr.グリーンペッパーと呼ぶトウガラシ好きの校長先生は「長い間、支援が届かなかった」と言い、トウガラシを頬張りながら全身で喜びを伝えてくれた。大月さんは長期的な支援の約束をし、3月の開校までに黒板やノート、鉛筆を届けることにした。
 12月31日、僕は帰国し、乗り換えのため、大晦日の上野の街に降り立った。そこには日本の豊かな現実があった。「消費することに支えられた薄っぺらな経済社会は、モノを持たず、あるモノを大切にしようとする社会を一層貧しいものにしているかもしれない」と、僕は支援する側の社会のあり方を問い直しはじめていた。国際社会は45億ドルの支援を決定し、アフガニスタンは平和への道にたどりついたように見える。でも自立支援とはいえ、開発型で金融経済を優先する支援はアフガンの自然や文化を奪い、危機迫る地球環境の悪化に拍車をかけることになるかもしれない。20年を超える内戦は、結果的に経済至上の物質社会を隔絶してきた。今はゴミ一つ落ちていない美しいアフガンの地平に立つ支援の仕方を考え、真の平和に根ざしたアフガニスタンを創造していくことは、私たちが自分たちの社会のあり方を見直し、私が私のあり方を見直すことから始まっていると思う。7世代先へと続く美しい道を共に歩んでいけますように‥‥。祈   (八ヶ岳・藤田政弘)


〈シャマーレ・アフガニスタン〉プロジェクト

★長野を中心に活動してきた「アフガニスタンの人々のいのちを救おう緊急キャンペーン」はこれまでもカンパを集めペシャワル会等のNGOに託してきたが、年末にメンバーが現地を訪れたのをきっかけに直接支援を行うことになった。現地で今一番必要なことは教育で、まず学校を再建したいという。建物は日干し煉瓦を積み上げて自分たちで立てることができるが、黒板や鉛筆、ノートがない。それに先生を雇うお金がない。この報告を受けてプロジェクトではチャリカル市の破壊された17校のうち緊急に3校の再建をサポートすることになった。先生の給料1人1ヶ月5000円あればなんとかなるということで毎月1000円を定期的に送金してくれる会員も募っている。5人1組で1人の先生を支えることになる。もちろん定期的でないカンパも歓迎!
★同時に昨年3月に大月さんらが難民キャンプ等でアフガンの民族弦楽器ラバーブの第一人者であるアミール・ジャン氏と仲間達のライブ演奏を収録したビデオを元にして、このたびCDを製作して発売した。「なんて美しい国アフガニスタン」と遠いふるさとアフガンへの想いを歌う<SHAMAAL E AFGHANISTAN>の収益は現地へのカンパにされる。

シャマーレ・アフガニスタン

郵便振替番号 00560−3−73975 
事務局TEL/FAX 0263−48−4904(山口)
CD1枚2000円(郵送料 1〜3枚300円 4〜9枚650 円 10枚以上無料)

CDのライナーノーツです。(PDFファイル/100kb)



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