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新潟中越地震‥テントが宝もの

できることはたくさんあります

★グローバル・ピース・キャンペーン★
OPEN-J BOOMERANG 468【テントが宝ものなんだ】より
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■転送・転載・大歓迎■

■山田和尚■

今回の新潟中越地震の件について、【楽市楽座】をやってくれた加藤くんと連絡
がつき、全国各地からテントを送ってもらおうと言うことになりました。神戸の
震災の時もそうだったのですが、被災地ではいくら寒くっても余震の怯えから建
物の中で寝るということがなかなか出来ない現状にあります。そこで友人、知人
と相談して出来るだけ多くのキャンプ用テントを送っていただけないでしょうか。
今日現在で不足している物に関しては、ご安心ください。一両日中に各方面から
支援が届きはじめることになるでしょう。その時点でも不足するのがテントです。

テントを送っていただく時に、一度組み立ててみるようにしてください。不足し
ているポールがあるかもしれないからです。それとご自分で応援の手紙も添えて
頂くようにお願いします。この手紙こそ心の支えとなり、冷え切った心の湯たん
ぽになるからです。そうそう、手紙の中に「身近にあるペットボトルにお湯を入
れて、衣類を巻いて湯たんぽ代わりにしてください」という一文も忘れずに…。

今夜、日テレ系で放送する『たったひとつのたからもの』を是非観てください。
秋雪くん役の翼くんもがんばってくれています。みんなで励ましあって『生きる』
という宝ものを大切にしていきましょう。
          ・・・雪の旭川から(北海道の残りの上映会があと6回)

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◆加藤寛明◆

全国の皆様、7月の三条市の豪雨災害の時の楽市楽座へのご協力、大変ありがと
うございました。皆様からいただいた気持ちを、被災した方々に届けることがで
きたと思っています。しかし、まだ豪雨災害の後片付けも終わっていないところ
もまだあり、余韻が消えないうちに今回のように新潟県中越地震がおきてしまい
ました。

私は、地震発生当時、大和町という一番被害の大きかった小千谷市から車で南へ
1時間、十日町市から山を挟んだ東側にいました。上越新幹線では、「浦佐」と
いう駅のあるところです。そこには国際大学という、世界中からの学生の集まっ
ている大学院があり、私は寮に住んでいる友達を訪ねていました。

6時少し前に、出かけるために鉄筋5階立ての寮の1階に下りてきたところで、
激しい揺れを感じ、走って外の駐車場へでました。停電で真っ暗になり、揺れは
長い間続きました。40〜50秒だったということです。

月と星が明るい夜で、すぐに寮や学校の校舎から、学生たちが走ってでてくるの
がわかりました。その後、立て続けに2〜3回の激しい揺れがあり、寮も停電し
ていたため、中に入ることは非常に危険だったため、学生たちはテニスコートの
脇の芝生に自然と集まりました。

私の住んでいる三条と違い、新潟県の南側は非常に寒く、今にでも雪が降りそう
な寒さで、凍えるほどでした。学生たちは木を集めて火を燃やし、歌を歌って寒
さをしのぎ、電話や車のラジオで安否の確認や情報収集をしました。そして、震
源がとても近く、まだまだ大きな余震が続くことがわかりました。

週末だったので、学校の職員はいなかったのですが、4時間後の夜10時過ぎに、
体育館に発電機が持ち込まれ、ランプをつけ、そこを避難所としました。

懐中電灯を持っている者を中心に、寮のフロアごとにグループをつくり、毛布や
上着などをとりにいきました。そのときには月も沈んでいて、寮の非常用のライ
トも消えて完全な暗闇で、激しい余震も断続的に襲っていたため、5階建ての鉄
筋の建物に入るのはとても怖いものでした。

体育館では柔道用の畳や体操用のマットを敷き、みんなで身を寄せ合って寝まし
たが、寒さと頻繁に襲ってくる余震のため、みんなほとんど眠れないようでした。

翌日も、トンネルの陥落や土砂崩れ、道路の陥没のため、私は三条に帰ることが
できずに、大学に滞在していました。電気は回復して、寮の部屋にも戻りました
が、余震が続いているため、いつでも出れる準備をし、食事をしていても、話を
していても扉を開ける音や、足音、イスを引く音などが聞こえるだけで、ハッと
するほどおびえていました。その日も体育館で寝て、朝に震度5くらいの大きな
余震があったときは、寝ていたにも関わらず、ほとんどの人が飛び起きて外に逃
げました。

私は今日、新潟の南側を経由して三条にかえってきましたが、学生たちは、食べ
物もコンビニにほとんど何も売っていないため、学校から支給されるパンやイン
スタントラーメンを食べ、体育館に布団や教科書、パソコンを持ち込み、勉強し
ています。

大和町にいたときは、情報がなかったため、自分の周りのことしかわかりません
でしたが、三条へ帰ってきてテレビを見ると、小千谷などの震源地付近や山村で
は、かなりの家が崩壊し、入りきらないくらいの人たちが避難所で生活をしてい
ることがわかりました。

そして、避難所に入りきらない人、入りたくない人、余震の恐怖で建物に入れな
い人など多くが車の中などの外で生活していることがわかりました。家にいる人
も、大学の寮でそうだったように、いつ激しい余震がくるか、おびえながら生活
をしています。そして、とても寒いです。

そこで、みなさんに、三条の豪雨災害のときのように、お願いしたいのですが、
自宅に眠っているテントを送っていただけないでしょうか。明日にでも雪が降る
寒さですので、外で生活している人たちには、寒さしのぎになります。避難所で
生活している人たちにとっても、避難所は混雑して、着替えなどでも仕切りのま
ったくない体育館のため、プライベートが保てません。テントをどこかに張るこ
とができれば、そこで生活をしたり、着替えなどのプライベートを確保すること
ができると思います。そして、避難所に来ていない人でも、余震の恐怖で家の中
に入れない人たちにとっても、庭などの広いスペースのあるところにテントを張
ることができれば、少しは安心できると思うのです。すでに家の中に入っている
人にとっても、また何かあったときのために、持っているだけで安心することが
できると思うのです。どうか、送ってもいいというテントを持っている方はご協
力お願いします。

送っていただいたテントは、被害の範囲が広いため、配れる範囲からでも配らせ
ていただこうと考えています。また、配りに行くのも、一人では配れる時間も行
ける場所も限られているため、車を出せて被災地に行ける範囲で配りに行ける方
にボランティアで協力していただけるようにお願いします。

今回は送っていただくものをテントに限ってお願いします。送っていただく前に、
ご面倒かと思いますが、一度組み立ててから送っていただけるようお願いします。

【送り先】は、クロネコヤマトの宅急便で、「三条支店止め」でお願いします。
受け取り人名:加藤寛明 電話番号:090−4848−9954
また、活動資金として寄付金のご協力もお願いします。
【振込先】郵便振替:00980−5−12290 オープンジャパン
通信欄に「中越元気村」とお書き下さい。的確に使わせていただきます。

明日にでも雪が降るという予報もあるため、今週末には一回目を配りに行きたい
と思います。ご協力、よろしくお願いします。
加藤寛明 mailto:hiroakikato@hotmail.com

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◆草島進一◆

10月26日火曜日 午前9時 小千谷市より

10月24日 日曜日、午前10時。新潟に向かう。神戸で一緒に活動した有志
で新潟で炊き出しをしようということになり、食材、鍋、五徳、ガスボンベなど
を調達。500人分ぐらいの「元気鍋」をつくろうという計画。

高速は新潟から乗り、三条止まり。三条のプロパンガス屋、「コメリ」でガスボ
ンベ調達。今朝、小千谷までいってきたという店員のひとりが、小千谷まで行く
道のりの険しさと、通常の8号は途中までしか行けないことを教えてくれる。山
川の道に迂回しないといけないということ。それをたよりに車を走らせる。

途中、4輪駆動でもがっくんと乗り上げる亀裂や、かなりの上下運動を伴う路線
のうねりを感じながら小千谷を目指す。結局小千谷に到着したのが午後7時をま
わった頃。市役所内の災害対策本部に行く。役所職員と報道機関の人間で本部は
ごった返していた。当日朝9時から入り諸々の現地状況を調査していた市村浩一
郎氏が迎えてくれた。壁にはびっしり、被災者の情報、道路情報、倒壊家屋、避
難場所などを書いた紙がはってあった。

情報はまだどんどん変化している。避難場所は、約2千人避難しているという総
合体育館をはじめ、公的建物の他に自主的に空き地や駐車場単位で固まって暖を
とって、休んでいるところがあり、この状況については詳しくは役所では把握で
きていないようだった。ただし救援物資を平均して配る必要性があるため、その
把握について、役所も苦労しているようだった。

夜、停電で信号も街頭も付かないまっくらな街のところどころに、食事をしたり
暖をとるたき火の火が見えた。そして多くの人が車の中で寝ている。

現場にはいって突然何回か余震があった。結構揺れる。震度3〜4ぐらいは日常
的に「あ、またか」という感じでおきている。

災害対策本部で情報収集しているとそのうち元神戸元気村の吉村誠司君が到着。
彼は、豊岡の水害現場でカヌーでの救出作戦をおこない、豊岡のボランティアセ
ンターの立ち上げを行った後、新潟に向かってくれた。600キロの道のりを走
って来てくれた。

夜、災害対策本部で避難所の状況や物資の状況、そして次の日の炊き出しをする
場所を確認するための打ち合わせした。孤立してほとんど着の身着のままヘリに
乗って避難するしかなかった山古志村の方々が避難しているという小千谷高校の
体育館がいいのではというアドバイスをうけて、そこで行うことに決定。周辺に
いた報道各社に手書きリリースを手渡す。

深夜、吉村氏と一緒に周辺を調査する。幹線道で地割れがおこり1メートルもの
段差ができているところがあった。倒れている電信柱。斜めに傾いたアーケード
や電信柱。雪国で家が強いせいか倒壊家屋の数は神戸には全然及ばないが、とこ
ろどころに震度6強という地震の強さを物語る跡が見られた。

●震度6弱の余震
25日月曜日 朝、午前5時ごろ震度6弱の地震にたたき起こされる。月曜日の
朝の余震6度弱 と聞いたが、荷物満載のワゴン車の運転席と助手席で、市村氏
とともに車の中で仮眠をとっていたのだが、直前に目が覚めて、ぐぐぐと下から
突き上げるような揺れを感じ、30秒ぐらい、電信柱、建物がみしみしと揺れ、
ばらばらと小さな破片が落ちた。結構被害がまた増えたのではないだろうか、と
いうぐらいひどい揺れだった。また驚いた。

●山古志村からのヘリでの被災者の方への「元気鍋」
朝から炊き出しの準備。下見にいくと大体200名ぐらいの方が体育館にいらし
た。外での炊き出しになる。雨がちょっと心配だった。うーむ屋根かということ
になる。テントは準備していなかった。あれを使おう。と吉村氏が指さした。サ
ッカーゴール。それにビニルシートをかければいいじゃないか、ということにな
った。そうなったら、そこにいる人の動きは素早かった。あっと言う間にサッカ
ーゴールを運び、シートかけが終った。立派な屋根ができた。その後、6人集ま
った神戸、埼玉、山形、の有志で、大量の里芋や10キロの豚肉などを現場にお
ろし、地元の人にも呼びかけて一緒に準備をはじめた。

早速おばさんたちが、みんなで芋の皮むきをはじめてくださった。男性は火の番
をしてくれた。とても結束の強さを感じた。どんどん料理をする輪がひろがって、
用意していた包丁の他にもどこからか調達した包丁をもって、どんどん芋煮つく
りの輪が広がっていった。持っていった里芋、じゃがいも、にんじんなど全部皮
むきが終わり、煮込む。

お昼になりようやく完成。差し出して「ありがとう」といって受け取って「ああ、
あったかいものはいいね」と思わず涙ぐむご老人がいた。みんな満面の笑顔だっ
た。1回目で大体200食。あっという間になくなった。その場で「おいしい、
おいしい」といって平らげていただいた。良かった。

神戸元気村のはじめの活動が、「元気鍋」だった。「元気鍋」の特徴はただ、ボ
ランティアだけで完全に全部やるというよりも、被災者の方にもよびかけて、み
んなで鍋をつくろうという炊き出しだ。そのやり方を行うと、鍋と燃料と食材さ
えあれば被災者のみなさんの力によって炊き出しを続けることができる。

こうするとボランティアスタッフは次の火付け役にまわることができる。これが
「元気鍋」だ。当時の元気村では炊き出し隊長のとーる氏(現四万十塾)を中心
に神戸ではほぼ3月末まで炊き出しは毎日続いた。2月ぐらいには一日7千食を
越える炊き出しを数ヶ所でやっていた。神戸のときも、兄を失い、家も倒壊して
しまった方なのだけれど「今、がんばらんと」と毎日懸命に鍋づくりをしていた
だいた方がいた。包丁を持つことで元気になるお母さん達もいた。炊き出し一つ
でもいろんな知恵をつかえば「元気」になれる要素がある。

「元気鍋」方式により鍋も野菜の残りも五徳も、予備ボンベ付きでプロバンガス
ボンベもこの方式で避難所に置いてきた。とにかく今、炊き出しがトップニーズ。
現地に入るのは何人でもいい。ガスボンベ、水、大きな鍋、大量の野菜をもって
グループ単位で、現場に駆けつけてほしいと思うのだ。

地震翌日25日午前9時から現地にいて、いろいろ情報を提供してくれた市村氏、
そして、豊岡水害から駆けつけた吉村氏と炊き出しを終えてその後、数ヶ所の避
難所にいってみる。約3千人もの方が避難されている総合体育館。超巨大な体育
館に3千人が地べたにそのまま毛布を敷いて、雑魚寝状態で休んでいる。お年寄
りが毛布にくるまって休んでいるのを見たが、これはたまらない光景だった。

神戸のときもそうだったけれど、寝顔からなにからなにまで隣人同士、すべて見
通せる日常、まさにプライバシーが全く確保できない日常というのは、気が張っ
ている3日間ぐらいだったらまだいいかもしれないけれど、これが長期となると
心理的負担がすごいと思う。神戸のときは段ボールなどで壁をつくって、空間を
確保したりすることもあった。今、こうしたこともあってかそれぞれの車の中で
避難している人がたくさんいる。でも車の中で眠るといってもみんな大きなバン
にごろんと寝ているわけではない。全部確認したわけではないけれど、多くは座
席も倒さずにとにかく眠れればいいということで仮眠をしているといった感じだ
った。報道によれば、車で避難していた人の2名が疲労のため死亡したというこ
とでもあるし、この状態も長期的には結構きついと思う。ところどころの公園な
どにテントを張る方もいたが、数多くは見かけなかった。

26日、朝ももう一度この総合体育館に行ってみる。朝の朝食の配給にほぼ千人
ぐらいの長い列ができていた。その列はロビーを2周し、体育館の中心にどーっ
と伸びていた。やっとのことで朝食のおにぎり、パン、バナナ、などを受け取っ
て、避難所の中や車、家にもどっていく。ここにあったかいみそ汁の炊き出しが
あったらいいに違いない。

トイレ、給水車にも列。水洗トイレの水はもちろんでない。昨晩、鶴岡から女性
ボランティアが到着したが、彼女が確認すると女性トイレは流す水もなく、便器
は大変な状況だったということ。朝になると掃除もされていてバケツの水も用意
されていたようだが、トイレの水をどうしているのかと思ってよくみていたら、
バケツの水をもった男性がトイレにはいってきた。水をよくみると色がついてい
るようで「どこの水か」と聞いてみた。すると「となりのプールの水です」との
ことだった。

●ボランティアセンター立ち上げ。とニーズの告知。
炊き出しをおこなった25日、午前10時からボランティアセンター立ち上げの
ミーティングがあり1時間ほど出席。吉村氏とともに刻々と変わるニーズを被災
地外に伝えるホームページの有効性、「元気鍋方式」の炊き出しなどについて提
案した。センターは27日より受付開始。HPは小千谷市広報の方と打ち合わせ
をし、ページ上でボランティア情報として、今現在は、炊き出し歓迎として募集
告知し、後に独立ページ完成後にリンクしてもらうようにした。
http://www.city.ojiya.niigata.jp/whatsnew/jishinv.html

今朝はどんよりと曇り雨がぱらついている。気温も低くフリースを来ていても肌
寒い。これから冬にむけてどんどん寒くなる時期。当面はあったかい炊き出しと
避難所にいる人たちがどうしたら快適になるかに知恵をしぼらないといけないと
いけないと感じている。

朝、もう一度、山古志村の方々が避難している小千谷高校の避難所へ。がらんと
しているので聞いてみると、村で地震で亡くなった子供と最期のお別れでみんな
見送りにいっているとのことだった。「もどってきたら、また昨日のようにみん
なで鍋つくります。ありがとう」とまとめ役の男性が言った。

寒さにふるえ、巨大な体育館に雑魚寝している人々の姿を思い浮かべていただき
たい。特にご老人の姿や子供たちの姿を。今こそ愛をもって知恵を絞り、行動を
おこすときだ。一人でも多く、動き出そう!

●くれぐれも現地に向かうときは交通安全、段差などに気をつけて!

なお、現地画像データは<http://www.kusajima.org>に、掲載します。

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